Nikita Mishra Shawn Lim
2023年6月16日

チャットベース決済はゲームチェンジャーか、それとも悪夢か

ワッツアップがインドとブラジルに続き、シンガポールでチャット内決済機能の提供を始めたことが議論を呼んでいる。チャットベースの決済は、デジタルイノベーションの未来だろうか、それともプライバシーやセキュリティの懸念をさらに深める悪夢だろうか。

チャットベース決済はゲームチェンジャーか、それとも悪夢か

決済の分野では、今も劇的な変化が続いている。中国が手のひらで決済できるSFライクなシステムを研究して試験運用を始め、イーロン・マスク氏がツイッターを決済ベースのスーパーアプリに変えようとしているのが、その一例だ。そんな中、ワッツアップは、インドでは冷淡な反応しか得られなかったチャット内決済ツールを、今度はシンガポールとブラジルで展開しようとしている。

キャッシュレス経済の先進国であるインドでの反応を「冷淡」と表現した理由を説明しよう。インドのデジタル取引は、2015年まではまだ黎明期にあった。しかし2018年に、(ユーザーが1つの企業に縛られるアリペイ[Alipay]と異なり)多様なフィンテックアプリが使えて、すばやくアカウント間送金ができる無料プラットフォーム「ユニファイド・ペイメンツ・インターフェイス(UPI)」が急速に普及した。そしてワッツアップが、野心的なピア・トゥ・ピアのデジタル決済ツールを、100万人ほどのユーザーに試験導入したのは、まさにその頃だった。

今もインドはUPIベースの決済であらゆる記録を更新し続けている。2023年1~4月には、UPIベースの決済が910億件という記録的な数に達した。2022年12月には、デジタル取引額が合わせて1兆5000億ドル(約210兆円)となり、米国、英国、ドイツ、フランスの合計取引額を上回った。

そのため、ワッツアップのウォレットサービスが、この大成功を収めた決済システムで、かなりシェアを獲るはずだと考えた人もいるだろう。ワッツアップアプリはユーザー数が4億人超とインドで絶大な人気を誇っており、誰でも簡単に利用できる。だが、インド国立決済公社によると、ワッツアップの決済機能利用者は2000万人足らずで頭打ちとなっており、UPIの決済に占める割合は0.01%にすぎない。グーグル・ペイ、ペイティーエム(Paytm)、フォーンぺ(PhonePe)といったフィンテック企業が、メタの所有するワッツアップの決済分野への進出を阻んでいる。

では、メタのワッツアップが暗澹たる結果に終わった主な原因は何だったのだろうか。また、現在シンガポールとブラジルでチャット内決済機能を展開しているワッツアップが、インドでの失敗を教訓に、APACの他の地域でビジネスや未来のデジタル取引に変革をもたらすことができるだろうか。

ワッツアップはシンガポールで、決済大手ストライプのソリューション、ストライプ・コネクトとストライプ・チェックアウトを、ウォレット機能に採用すると明らかにした。これにより、オンラインとオフラインの両方でアプリ内決済が可能になる。今のところ、ワッツアップの決済に対応しているシンガポール企業はわずかだが、対応企業を増やす計画が進行中だ。

ワッツアップのようなチャットベースアプリがeウォレットをサポートする強みは、ユーザーベースがすでに確立されていることにある(シンガポールのワッツアップユーザーは460万人超)。ユーザーは、ウォレット機能を使うために追加費用を支払う必要もない。こうした試みは、マーケターやブランドにもさまざまな可能性をもたらすだろう。今後は、チャット内決済機能をマーケティング戦略や販売戦略に組み込み、シームレスなエンドツーエンドのショッピング体験を提供することがあたり前になるかもしれない。ただしユーザーにとっては、プライバシーやデータ保護に課題を抱えており、詐欺や不正行為に見舞われるリスクも懸念される。

Campaign Asia-Pacificでは、この厄介な問題について議論するため、業界を代表する専門家たちに話を聞いた。チャットウォレットの利便性は、デジタル決済の世界に革命をもたらすのだろうか。それとも、データ漏えいの懸念が、最重要課題として立ち塞がることになるのだろうか。

ホー・ベン・コー(Hwee Peng Koh)氏
ブラック・ラボ パートナー兼エグゼクティブクリエイティブディレクター、バイ・ザ・ネットワーク 創設パートナー

この決済機能はカスタマージャーニーを前進させ、より利便性の高い顧客体験をもたらすだろうと思います。ワッツアップのウォレットを利用すれば、決済完了後もアフターサービスとして会話(リマーケティング)を続けられるため、顧客ロイヤルティの向上やブランドへの信頼の醸成が期待できます。しかも、すべてがスマートフォン上で完結するのです。

ただし、リマーケティングをやり過ぎると、スパムと見なされたり顧客をいら立たせたりする可能性があります。恐らく最大のハードルはセキュリティでしょう。メタはユーザーを安心させようとしていますが、セキュリティやプライバシーの水準に疑問を持たれているため、危うい綱渡りになることも考えられます。シンガポールはおそらく世界で最も安全な国の一つですが、デジタルセキュリティは毎日のように脅かされています。詐欺師が偽のビジネスアカウントを作成し、善意の営業担当者や政府関係者になりすましているのです。ネットユーザーの意識を高めるために、さまざまな努力が続けられていますが、警告の数は日々増え続けています。

消費者は、決済を行ったりデータを提供したりする際には、これまで以上に慎重になり、よく吟味する必要があります。個人情報保護法(PDPA)の導入により、ブランドにはPDPAのルールに従い、データプライバシーを厳重に保護することが求められています。企業は、セキュリティ対策に関するコミットメントを示し、消費者に安心感を与えることが重要です。しかし、データ漏えいが起きた場合に備え、危機管理コミュニケーションの準備をしておく必要もあります。一歩間違えれば、消費者との信頼関係は一瞬で崩壊してしまいます。

ニラジ・ナグパル(Niraj Nagpal)氏
広告・マーケティングテクノロジー・コンサルタント 

ブランドは、販売戦略や顧客戦略にワッツアップの決済機能を組み込むことで、決済処理の煩わしさを減らし、会話型コマースの領域に参入できます。ソーシャルとコマースや、オフラインとオンラインの境界線はますます曖昧になり、特にモバイルファーストのAPAC地域では、その恩恵は大きく、長期にわたって続くでしょう。そして、その基盤となる決済処理は、ビザ、マスターカード、アメックス、ストライプなど、消費者プライバシー保護のための強力な仕組みを備えた、世界的な大手決済代行会社が担うことになります。

ロアナ・ブリト(Roana Brito)氏
RGA グループ戦略ディレクター
 

このような決済機能は、ブランドにとっても、とてもエキサイティングなものになるでしょう。チャット内決済によって、顧客体験の幅が広がるからです。ブランドは販売を促進するだけでなく、顧客サービスを強化することを目標にすべきです。

また、どうすれば購入時に有意義でインタラクティブなやり取りができるのかを考える必要があります。ストーリーテリングをコマースに絡めることで、発見から販売後のフォローまで、各段階で交わされるやり取りを、消費者の個人的な体験に変えることができます。成功を収めるには、「販売するではなく、顧客の役に立つ」ことを信条とすべきでしょう。パーソナライズされた体験に顧客を導くことで、顧客は自分が大切に扱われ、理解されていると感じるようになります。その結果、顧客満足度も高まり、売上げも向上します。ここに、真の成長機会があるのです。

とはいえ、最も重要なのはプライバシーです。シンガポール人の85%が企業による個人データの使用に懸念を示しています。その一方で、パーソナライズされた体験への期待も高まっています。ブランドは、こうした綱渡りのような状況を乗り越えていかなければなりません。解決策となる可能性があるのは、「疑似匿名性」が確保されたショッピング体験です。具体的には、(商品の配送など)必要な場合を除いて、顧客が個人情報を開示することなく、ブランドとやり取りができる体験です。ワッツアップのシステムでは、決済情報が難読化されているため、これが可能です。ワッツアップは、このようなユーザー体験を通して、プライバシーに敏感な消費者の信頼を勝ち取ることができるかもしれません。

アンキット・バンガ(Ankit Banga)氏
FCBシックス インド担当者最高ビジネス責任者

 チャットベースの決済機能は、ワッツアップをより強力なツールに変え、P2PおよびB2Pコミュニケーションチャネルとしての人気を高めるものです。クリック・トゥ・ワッツアップ機能(クリックするとワッツアップに遷移する機能)とペイメント機能は、消費者の購買パターンを変える可能性を秘めています。ユーザーが頻繁に利用するプラットフォームで、新しい商品を発見するのを助け、決済時の煩わしさからも開放してくれるからです。

重要な成功の鍵は、優れた顧客体験を提供する上で、顧客情報の取り扱いに細心の注意を払って取り組むということです。

ブランドは、PDPA規制を遵守して、データ保護とセキュリティに最優先に取り組まなければなりません。これには、データの収集と処理について顧客から適切な同意を得ることや、顧客情報を保護するための強固なセキュリティ対策を実施することが含まれます。また、データの取り扱いに関する透明性を確保し、安全な決済処理事業者と提携し、ワッツアップのエンドツーエンド暗号化も活用する必要があるでしょう。これによってはじめて、決済機能を利用する顧客のプライバシーと信頼を確保できるのです。

ジェイミー・テイラー(Jamie Taylor)氏
ハバス・メディア オーストラリア担当デジタルインテグレーション責任者

すでに、ワッツアップのビジネスアカウントを通じて顧客と直接やり取りできる関係を確立している、あるいは、ワッツアップを活用して、顧客に注文状況をタイムリーに伝えたり、お得な製品や新商品を紹介したりして、顧客と有意義な関係を構築している、アーリーアダプター企業にとって、この機能はとりわけ大きなメリットをもたらすかもしれません。

顧客関係管理(CRM)システムと企業向けのワッツアップを連携させているブランドにとっては、この決済機能の導入はさらに大きな意味を持ちます。ブランドは、CRMの過去の購入頻度データを基に顧客をフォローすることで、より戦略的にダイレクト販売を推進することができます。顧客の過去の購入パターンに基づいて購入リマインダーを送信するなど、顧客ごとにパーソナライズされたマーケティングを実施することで、コンバージョンを増やすこともできます。しかしその一方で、顧客データの管理とガバナンスを確立することも強く求められます。データを暗号化して、定期的にセキュリティ監査を実施し、セキュリティのベストプラクティスを実践することがとても重要です。

また、顧客に対して、安全でプライバシーに配慮した環境の構築をコミットメントする必要もあります。鍵を握るのは、同意の管理と積極的なコミュニケーションです。ワッツアップを顧客とのコミュニケーションにすでに活用しているブランドは、プライバシーとセキュリティについてあらかじめ十分顧客に説明しておくことで、顧客の信頼を得ることができるでしょう。

提供:
Campaign; 翻訳・編集:

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