David Blecken
2018年12月20日

「遺伝子マーケティング」は実現するのか

消費者のDNAに基づいてプロダクトやサービスを提供し、コミュニケーションを図る −− マーケターにとっては夢のような話だが、現実化への道は険しい。

東京・二子玉川に展示されているゲノムハウス
東京・二子玉川に展示されているゲノムハウス

未来の家庭では、全ての調度品が一人ひとりに合わせたオーダーメイドになる。それも、個々が一切注文することなしに −− これこそ、パナソニックが描くビジョンだ。

同社は東京の高級住宅街・二子玉川に、ある女性のDNAに基づいてつくられたベッドルーム、題して「GENOME HOUSE(ゲノムハウス)」を展示している。その女性とは、遺伝子解析サービスを消費者向けに展開する「Genequest(ジーンクエスト)」の創設者、高橋祥子氏。そこで施されている工夫とは −− 例えば肌の乾燥を防ぐための、保湿力の高いシアバターのベッドリネン。祖先が東南アジアにルーツを持つため、この地域原産の木材を使った床や観賞用植物。朝が遅い生活のため、程よく調整された照明。外交的で明るい性格をイメージしたスクリーン……などなどだ。

大手電機メーカーが遺伝子検査の領域に足を踏み込んだプロジェクト。規模としてはまだ小さいが、そのコンセプトは同社にとってもマーケティング界にとっても大きな意味合いを持つ。

「我々が試みているのは、住む場所や食べ物、衣服なども含めた未来のライフスタイルの予測です」。こう話すのは同社のアプライアンス社(家電事業を行う社内カンパニー)で先行開発を担うデザインチーム「FUTURE LIFE FACTORY」のチーフデザイナー、今枝侑哉氏。生物学的データや遺伝子データという「究極の個人情報」は、将来的に他の消費者のデータと掛け合わせることで大きな役割を果たす可能性がある。

「遺伝子情報によって最適な居住空間と、そこにしつらえるべきプロダクトを個々に提供できる」と今枝氏。だが現段階ではゲノムハウスは実際のビジネスプランのフェーズではなく、多分にPR的要素が強い。アイデア自体にはサイエンスフィクションの趣があるため、「まずは具現化し、オープンな議論を起こすことが大切なのです」。それゆえ、裕福な若いファミリーに人気が高いこのエリアでの展示を決めたという。

遺伝子検査は日本でコストが下がり、一般に人気が出始めているのもパナソニックが興味を示す理由だ。「通常の顧客は40代、50代の方々ですが、費用が下がればもっと若い層が増えるはず」。ジーンクエスト設立以前は東京大学で遺伝子を研究していた高橋氏は、このように話す。間もなく、基本的検査は1万円程度で受けられるようになるとも。ジーンクエストをはじめ、この業界の企業は既に消費者向けの広告を展開し始めている。

迫健太郎氏(左)と今枝侑哉氏

「遺伝子データは医療や健康管理のために利用されることがほとんど」と高橋氏。だが日常のパーソナライズサービスに活用したいという期待は高まっており、「早急に実現する可能性が高いでしょう」。パナソニックのプロジェクトに参画したのは、「人々が自分自身を理解することで、より良い生活を送れるようになれば」というコンセプトに共感したから。では、どのような規制がハードルになるのか。この問いには正面からではなく、「日本の最大の課題はまず検査を受ける人の数を増やしていくこと」とだけ答える。

「米国と比べれば、日本の市場はまだ始まったばかり。ですから、検査を受けたいと思う人々を増やすことが一番の課題です。その数が増えてデータが集積できれば、他の業界や分野でも研究を進めることができます」

クリエイティブな視点からこのプロジェクトに関わったマッキャン・ワールドグループのクリエイティブプランナー、松坂俊氏はより大きな期待を抱く。「マーケターにとって有用性のある遺伝子データはまだ集まっていませんが、やがてはデータ主導のマーケティングの新たな時代を築くでしょう」。また、MITメディアラボの伊藤穰一所長は「個人の理解に関しての潜在性では、遺伝子データはデジタルを上回る」と話す。

「遺伝子データと生物学的データを組み合わせることで、極めて強力なものになる」と松坂氏。例えばある企業が個人のDNA検査に基づいて家を建てれば、理論上はそれをプラットフォームとして引き続き活用できるという。つまり「個々とインタラクションを継続することで、現況に応じた調節や提案ができるのです」。こうしたチャレンジは、パナソニックのように100年にわたりハードウェアに特化したビジネスモデルを続けてきた企業にとって大きな方向性の転換となるだろう。

また、居住空間に生かすだけでなく「“ライフタイム・ショッピングリスト”といったアイデアも可能になります」。つまり、DNAに基づいて「弊害」となるプロダクトを切り捨て、本当に必要なものだけを選ぶ −− こうしてより良い生活を実現するというのだ。

マーケターは、いまだにデジタルデータに基づき消費者の嗜好を推察するのが基本。だがこうしたプロセスが革新的に変わり、「確実に個を把握することになる」。「理解するのは個人の行動データではなく、プログラミングですから」。

その一方で、こうしたデータが悪意ある人々の手に簡単に渡ることを想像するのは恐ろしい。たとえそれが善人であっても、我々の自主性が損なわれたり、ある種の差別が助長されたりという不安は消えない。当然ながら、こうしたデータとマーケターの間には消費者を保護する数多くの規制が存在する。だが松坂氏は、今後10年でこうした法的側面も緩和されていくだろうとみる。それを先導するのが、世界最大の遺伝子検査サービス会社「23andMe」を抱える米国だ。「議論をオープンにして、ひと握りのステークホルダー(利害関係者)がデータを独占できないようにすることが重要です」。

イノベーションの先頭に立つイメージを維持していきたいパナソニックだが、このような「地雷原」とも呼べる世界にまで飛び込むのは慎重だ。マーケターではない今枝氏は、現時点で遺伝子データをマーケティングなどいかなる事業目的にも利用する意図はないとし、あくまでも「人間の生活を豊かにすることに主眼を置いています」。

「遺伝子データ自体は個々の暮らしをより良い方向に導くためのもの。そうでなければ個人にとっての価値はほとんどありません」。こう話すのはFUTURE LIFE FACTORYのメンバー、迫健太郎氏。「この考え方はゲノムハウス・プロジェクトの大前提となるコンセプトです」。

だがマーケターも、「暮らしを良くする」という謳い文句を(本気であろうがなかろうが)しばしば使うことは間違いない。つまり、企業が提供する遺伝子情報をグレーゾーンで利用する可能性は否定できないのだ。結局はデジタルデータ同様、価値交換に帰するのだろう。「遺伝子データを提供することで自分にとって有益なプロダクトを入手できると分かれば、より多くの人々が進んでそうするようになるでしょう」と迫氏。

では究極的に、遺伝子データによって人間心理学を理解する必要はなくなるのだろうか。豪・メルボルンを拠点とするエージェンシー「スィンカーベル(Thinkerbell)」の創設者で心理学を学んだアダム・フェリエ氏は、「すぐに大きな変化が起きるようなことはない」とみる。

「ヘルスケア業界でバイオエシックス(生命倫理)が大きなテーマとなっているのと同様、既にマーケティング界ではデータ保護が主要な議論になっています。ゆえに“遺伝子マーケティング”や“バイオマーケティング”が実現しても、倫理性や機密保護といった面での課題が多い。倫理面や合法性で大きな失敗が起きれば、こうした事例がマーケティング界でごく自然と抑制策になる。最大の防壁ともなるでしょうね」

(文:デイビッド・ブレッケン 翻訳・編集:水野龍哉)

提供:
Campaign Japan

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